iPhoneにも2種類ある、という話
休み時間に、同僚のA君とiPhone談義。
ただ、どうもA君と僕とでは「熱量」のようなものが違う。
「こんなアプリを見つけたんだよ!」
「ふぅん、よく見つけてくるねぇ…」
かみあわない。なぜ「お、いいね!」とならない。
その理由がわかった。
僕とA君は、iPhoneを別なモノとしてとらえているのだ。
同僚A君にとってのiPhone
- iPhoneは「道具」。仕事道具であり生活の道具
- 必要な機能(=アプリ)を、しっかり使えればいい
- その代わり、必要な機能には高くても金を払う
- ひとつのアプリをしっかり使い込む
- 新しいアプリを試したいとか、あまり思わない
- 自分なりの使い方とかにも、あまり興味がない
- iPhoneだけで何でもやってやろうと思わない
- iPhoneはたくさんある道具のうちのひとつ
- iPhoneを「モノ」として扱い、適切な距離を保っている
僕にとってのiPhone
- 道具であり、さらに「自己表現装置」のようなもの
- iPhoneが自分のセンスや趣味や価値観やライフスタイルを投影した「自分自身」になってしまっている
- だから、無意識にこういうことにこだわってしまう
- 何のアプリを入れているか
- それをどう分類・整理しているか
- それをどんな用途に使っているか
- どんな設定にしているか
- どんな壁紙で、どんなケースに入れているか
- もう、iPhoneで何でもできるようにしたい
- iPhoneに何でも集めてしまいたい
- 他にできることはないか、いつも考えたり探したりしている
- 話題になっているアプリも、なっていないアプリもどんどん試してみたい
- おかげで、ひとつのアプリをじっくりと使い込めていない
- iPhoneが自分と同化していて、適切な距離を保てていない(真夜中に目が覚めて、朝までiPhoneをいじってしまうとか)
「道具」と「自己表現装置」
同僚A君も僕も、どちらもiPhoneが好きなのは一緒だ。必需品と考えているのも同じ。
ただ、根本的なとらえかたが全く違っている。
道具としてのiPhoneと、自己表現装置としてのiPhone。
もちろん、どちらが正しいということではない。
ただ、同じiPhoneユーザーだからと言って、「どうもかみ合わないなあ」と感じるときは、こういう認識の違いがあるのかもしれないよ、という話でした。
追記
過去にこんな記事を書いているのを発見。進歩ねぇなあ(笑)